今回は、大物歌手である小田和正さんについて紹介していきます。
小田和正さんは数々の名曲を作り出している、日本を代表するアーティストであり代表取締役社長でもあります。
そんな小田和正さんの若い時から生い立ちまで徹底調査していきますので是非参考になれば幸いです。
小田和正のプロフィール
- 生年月日:1947年9月20日
- 出身地:神奈川県横浜市
- ジャンル:J-POP・AOR・ニューミュージック
- 職業:シンガーソングライター・音楽プロデューサー・会社役員
- 担当楽器:ボーカル・キーボード・ピアノ・シンセサイザー・ギター
- 事務所:ファー・イースト・クラブ
小田和正若い時からの経歴
出身小学校は、関東学院六浦小学校という横浜市にある私立小学校です。
のちに神奈川県横浜市にある、中高一貫である聖光学院に入学します。
高校3年生のころに、学園祭である聖光際で小田和正・鈴木康博・地主道夫・須藤尊史の4人で演奏を披露しています。
聖光学院の授業で建築模型を制作して以来建築に興味を抱き、卒業後は東北大学に進学し建築学を専攻しました。
小田和正の実家は薬局であることから、医学部に進学しようとも考えたが消毒の匂いやカーテンの汚れに嫌気がさし東北大学に決めたといいます。
大学に進学し、オフコースは離れ離れになったが音楽活動を続けていました。
のちに「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」の全国大会で2位になったことから諦めることができずに、プロへの道を目指します。
小田は音楽活動を続けながらも、早稲田大学に進学し建築の研究も続けていました。
大学院修了とともに、完全に音楽の道へいくことに決め最初は売れなかったが数年が立ち次々とヒット曲を生み出しました。
オフコースは5人で活動していたが、鈴木の脱退で1年間の休止ののちに4人で活動開始後1989年まで活動しました。
小田さん自身のソロ活動は、シングル「1985」アルバム「K,ODA」を発売していました。
オフコース時代からソロ活動をしていたものの、解散後本格的にソロ活動を始めました。
ドラマやCMの主題歌やオリコンシングルチャート1位・シングルミリオンセラー突破など数々の偉業を成し遂げました。
1998年には約2週間入院するほどの速度オーバーによる事故を起こしています。
2011~2012年には、全国ツアーで約74万人を動員し国内ソロアーティスト歴代最多動員数記録更新するなど様々な記録も更新し続けています。
小田和正の家族構成
次に家族構成について紹介していきます。
小田さんは、すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として育っています。
父親は信次さんという名前で「藍綬褒章」を受賞しています。
しかし2008年に舌癌により94歳で亡くなっており、母親のきのゑさんも亡くなっています。
小田和正さんは2人兄弟で、1つ上に兵馬さんという兄がいます。
お兄さんは父の薬局を継ぎ、日本チェーンドラッグストア協会などの要職を歴任しているようです。
1982年には一般女性である、恵子さんと結婚をし数々の名曲を恵子さんにむけて作られたと言われています。
子どもはおらず、二人で仲良く過ごしているようです。
小田和正の若い時~現在:病気の経歴
「小田和正」と検索すると「病気」とでてきます。
実際は小田和正さんが病気になったのではなく、ファンの間でそうなのではないのかと言われています。
その理由が2018年に毎年放送されている小田和正さん主催の「クリスマスの約束」が延期になったからです。
クリスマスの約束とは略称「クリ約」といい、2001年から毎年12月25日前後にTBS系列で放送されている音楽番組のことです。
小田和正さんは紅白にも出場することがなく、あまり歌番組にもあまり顔をだしません。
クリスマスの約束を楽しみにしているファンも多いことや、小田和正さんは音楽に対して人一倍情があります。
更にクリスマスの約束が延期になった理由が明記されていません。
「2018年『クリスマスの約束』は、放送を行いません。小田さんと番組スタッフは、初夏より今年の番組制作についてミーティングを重ねて参りましたが、収録と放送を少しだけ延期して、それに代わるものを出来るだけ早くお届けしよう、いう結論に至りました。何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます。」
オフィシャルサイトより
ですので、ファンの間では病気で延期になったのではないのかと言われています。
しかし、ツアーもあったりと疲労が溜まったりそのあとに控えているものもあったためではないのかとも言われています。
小田和正さんは音楽に対して、中途半端にしたくない気持ちが強いためとも思われます。
今年で73歳を迎える小田和正さんですが、これからも健康に元気でいてほしいものですね。
小田和正の若い時といえばオフコース時代
小田和正さんの若い時といえば、オフコース時代ではないのでしょうか?
1970年に東芝からデビューし、最初は3人組→4人→2人→5人組と10年の間で人数が変わりました。
のちの1979年の「さよなら」が大ヒット後、数々のヒット曲を世に送り出してきました。
オフコースの時の初代担当ディレクターは、新田和長さんという方で起業家・レコードプロデューサー・元レコードディレクターの人です。
長渕剛さんや加山雄三さんなどの数々のアーティストを担当し、剛腕ディレクターです。
当時オフコースが、デビューのきっかけともなった「ヤマハ・ライトミュージック」での演奏を新田和長さんが聴いてて「絶対に契約したい」と思いスカウトに至ったようです。
ラジオで流れていたのをたまたま聞いていたようで、スカウトとなったそうです。
この「ヤマハ・ライトミュージック」では、東京ではなく勝ち抜きやすくするために東北から出場し1位で通過し全国大会では1位が赤い鳥で2位という結果になりました。
勝ち抜きやすくするために東北からにしたものの、東北も物凄いレベルが高かったようで「寝ててもできるくらい猛練習をした」と自信を持って挑んだようです。
赤い鳥とは、1970年代を中心に活動していたが1974年に解散しています。
合唱曲の代表曲と言っても過言ではない「翼をください」も赤い鳥の曲です。
現在はそれぞれ活動したりしています。
小田和正さんは若い時から音楽に対して人一倍、情を注いできたんですね。
小田和正の若い時と比べた現在
小田和正さんは今年73歳となり、見た目からは想像できない年齢なので驚く人も多いのではないのでしょうか?
年齢を重ねていくと、昔の曲を原曲キーで歌うのは難しいものですが現在も原曲キーで歌っています。
「オリジナルに近い感じでファンの方は聞きたいわけだから、その期待は裏切りたくない。キーを下げなきゃ歌えなくなったら、潔く身をひくのがいいなってぼんやり思っているんだけど」
おはよう日本より引用
と小田さんらしく音楽に対して覚悟をもって向き合っています。
オフコース時代の小田和正さんは、ファンとは少し遠い活動をしていました。
しかし事故がきっかけで多くのファンに励まされたことにより現在はファンとの距離を縮めることのできるような活動もしているようです。
小田さんは1998年に大きな事故を起こし重傷になった際にファンから、多くの激励の手紙をもらったようです。
その際に「こんな風に思ってくれているんだから、喜んでもらわなきゃ」考えるようになったようです。
小田和正の若い時 まとめ
今回は、小田さんの若い時について紹介していきました。
まとめてみると・・・
- 小田さんは薬局の次男として生まれ育った
- オフコースでは「ヤマハ・ライト・ミュージック」のコンテストがきっかけで東芝よりデビュー
- 今年で73歳を迎える小田さんは現在も現役で活躍している
- 事故がきっかけでファンとの距離を縮めるようになった
是非参考になれば幸いです。